一宮町の由来となった玉前神社
1200年以上の歴史をもつ一宮町の名称の由来ともなった玉前神社は、中世平安時代に建立され全国でも重きを置く神社として古くから信仰を集め、上総国一宮の格式を保ってきました。 「上総十二社まつり」と称される祭りは、浜降り神事として広く知られています。玉前神社の御神体は神武天皇の生母である玉依姫命(たまよりひめのみこと)が祀られています。縁結び、子授け、安産、子育てなどにご利益があることから、とくに女性の方に大変な人気があります。 風水学的に東京から見て最大の吉方位として、開運・商売繁盛の祈願に訪れる方も多い神社です。玉前神社に関しては別のコラムで今後詳しく触れていきたいと思います。
上総一ノ宮 玉前神社(一宮町教育委員会所蔵)
ちなみに、一宮地域の歴史を紐解こうとすれば旧石器時代(〜1万2000年前)という想像のはるか彼方から人が住んでいたようですが、ここでは古代から順に追っていくことは割愛し、おもに近代以降の一宮町の歩みに触れていきたいと思います。 近代以前から一宮町の歴史が知りたい方は、町役場のHPで公開中の「一宮町史」をご参照ください!
別荘地として人気を博した一宮町
現在の上総一宮駅が開業したのは明治30年の西暦1897年であり、現在(2021年)から遡ること120年以上の歴史を有しております。 鉄道が敷設され海水浴場が整備されたことから、名士の別荘が100軒近く建ち並ぶリゾート地として非常に栄えました。
風情のある一宮の町並み(一宮町教育委員会所蔵)
水面が美しい一宮川(一宮町教育委員会所蔵)
ご存じの方も多いかもしれませんが、かの文豪芥川龍之介が一宮町出身の友人堀内徒利器に誘われて、初めてこの町に来たのは大正3年(1914)、東京帝国大学英文科の学生で23歳のときで、7月から約一ヶ月を過ごしています。2回目の来訪は大正5年(1916)、現在も一宮川河口に所在する一宮館の離れで、一高時代からの友人久米正雄とひと夏を過ごし、のちの妻となる恋人塚本文(ふみ)に求婚の手紙を出したり、海水浴を楽しんだといいます。大正期の自由で闊達な雰囲気がリゾート地としての一宮町にも満ちていたのだと想像できます。
以前の一宮館(一宮町教育委員会所蔵)
一宮町史によると、昭和初期には、関東大震災被災地虚弱児童を収容するために一宮学園が建設されました。 一宮学園は、一宮町が三井八郎次郎男爵から寄贈された別荘地をときの内務省に寄贈して建設され、今も児童養護施設として残っています。もともと別荘地として全国的に有名だった一の宮町でしたが、一宮学園ができたことにより、さらに天下一の健康地と宣伝され、避暑、避寒、療養地として都会から多くの人を集めたとのことです。
以前の一宮学園(一宮町教育委員会所蔵)
一宮海水浴場(一宮町教育委員会所蔵)
サーフタウンICHINOMIYAの誕生秘話
日本におけるサーフィンのルーツは諸説あるようですが、戦後、駐留米兵を含むアメリカ人たちが神奈川や千葉の海でサーフィンする姿を見て、地元の若者たちがサーフボード型やスキムボード型の自作の板で波乗りしたのが始まりと言われています。 やがて海外から持ち込んだロングボードでサーフィンする人達や鎌倉でサーフボードを自作する人達が現れました。
ちなみに、若大将こと加山雄三さんは、映画『ハワイの若大将』のためにハワイでサーフィンを覚え、映画が公開された翌年の1964年にハワイからサーフボードを持ち帰り、湘南の茅ヶ崎で実際にサーフィンを披露したそうです。それが、1964年6月10日付の日刊スポーツに『波乗り日本第一号
加山雄三 サーフボード作る』というタイトルで紙面を飾りました。
1956年には経済白書が 「もはや戦後ではない」と締めくくり、時代は高度成長期を迎えるなか、50年代後半に米西海岸カリフォルニアを中心にサーフィンブームが始まり、映画や音楽、雑誌、ファッションに根付いたサーフカルチャーは日本でも若者を中心に波及していきました。
サーフファッションが1960年代のトラッドやアイビーベースからヒッピースタイルに色濃く影響をうけた70年代に、一宮町東浪見でCHP(California
Hawaii Promotion)が創業されました。
今回は、長年にわたり日本のサーフシーンを支えてきた岡野教彦さんから70年代頃の一宮周辺のお話をお伺いしました。
岡野教彦さんからたくさんのお話をお伺いしました。CHP本店にて撮影
当時のサーフィン事情
岡野さんによれば、このあたり(一宮周辺)のサーフィンの中心は太東であり、漁港脇の堤防が建造されるまでは素晴らしいレギュラーの波が立っていたそうです。 特に、77年6月のパーフェクトなレギュラーは今も色濃く記憶に残っていると言います。 ちなみには、このころはCHP前のビーチラインも整備されておらず、東京方面からこちらに来る際には現在の国道128号を使っていたそうで、国道から海に抜けた先に太東が見えてくるというロケーションだったそうです。
また、地形が良いときには東浪見P(ポイント)でサーフィンすることもあったそうですが、当時は突堤もないので地形が決まりにくく現在のサンライズPなどでサーフィンすることはなかったそうです。岡野さんは東京都のご出身ですが、子供の頃にはよく太東に海水浴に来ていたそうで、そのころはまだサーフボードでサーフィンする人の姿はなく、板(フロート)のようなもので遊んでいた人はいたそうです。
岡野さんはお兄さんの影響でサーフィンをはじめたのですが、 はじめてのサーフボードは東京の神田で購入しました。 当時はショートボードという概念自体がまだなく、サーフボードといえば今で言うところのロングボードだったので、岡野さんの最初のサーフボードもロングだったそうです。 余談ですが、最初にサーフボードに取り扱っていたのは意外!?にも百貨店の緑屋(現:クレディセゾン)というのはよく知られた話です。
志田下P(釣ヶ崎海岸)の隆盛
サーフィンをするものであれば、「波乗り道場」こと志田下Pは憧れでもあり畏敬の念を抱く場所として認識される方も多いのではないでしょうか? 2021年には、東京オリンピックの新種目となったサーフィンの試合会場として世界のトッププロによる熱いヒートが繰りひろげられたのはまだ記憶に新しいところです。
そんな志田下Pの変遷についても、岡野さんからお聞きしました。 前述のとおり、上質なレギュラーの波が味わえた太東Pですが、漁港脇の堤防が建設されると、残念ながら以前のようなレギュラーが消えてしまいました。 しかし、その堤防の影響で志田下Pの地形が良くなったそうです。
当時、岬町にあるタニーサーフ(現:ASP
TANYSURF)を中心に地元の若者たちなどの有志が集いサーフィン愛好会として「岬サーフィンクラブ」が設立され、岡野さんも所属したそうです。 「岬サーフィンクラブ」が日本サーフィン連盟(NSA)の勝浦支部の所属クラブとなり、岡野さんたちメンバーはそこから全日本を目指したそうです。 岡野さんから「いつのまにか志田下Pが波乗り道場なんて呼ばれだしたんだよなぁ」とお聞きして、当時のサーフィンクラブのメンバーの方たちが志田下Pで研鑽に励む姿が「道場」という名称のルーツなのかもしれないとふと思いました。
タニーサーフさんがオープンした「台東スケートボードセンター」(CHP所蔵)
現在のサーフポイントは如何にして生まれたのか
現在の一宮町では、サンライズPをはじめ、ビーチライン沿いのどこの海岸でもサーフィンが楽しむことができます。前述したように、一宮周辺は太東でサーフィンが盛んとなり、その後志田下でも隆盛期を迎えましたが、志田下より北でサーフィンすることは少なかったといいます。 前述のとおり、東浪見は河口近くで地形がよくなると入っていたそうですが、すぐに地形が変わり安定しなかったそうです。
80年代以降、千葉東沿岸海岸保全基本計画の一環として一宮川から太東漁港までの間に10基のヘッドランド(HL)の建設が計画されました。1988年に整備着工し、2016年頃にはおおよそ現在の外観となりました。そして、このHLにより地形が定まりサーフィンができるようになったこと、そして後述するようにビーチライン(県道30号線)が整備されたことでサーファーが集まるようになったそうです。(しかし同時にHLの建設には環境保護など様々な論点があることもあわせてお伝えしておきたいと思います。)
ちなみに、CHPさんはサンライズ前に位置しておりますが、当時はシンプルに「店前」と呼ばれていたそうです。下の写真を見てもわかるように、CHP正面のビーチライン(県道30号線)の正面には家などはなく、松林が広がる小道を抜けて砂浜まで出たそうです。 右側の写真が、皆さまも見慣れている現在の景色ですね。
CHP正面からの景色(CHP所蔵)
CHP創業当時は周辺に店などもなく正面のビーチラインもずっと狭かったそうですが、70年代に九十九里有料道路(通称:波乗り道路)の開通にともなって道路が整備され、ビーチライン沿いサーフショップが立ち並ぶようになったそうです。こうした時代の流れのなかで、HLのあいだ毎にサンライズ・ヨンライズといったポイント名で親しまれ、一年を通してコンスタントに良質な波がたつ一宮町に多くのサーファーが集まるようになりました。
以前のCHP(CHP所蔵)
現在、新型コロナウィルスの蔓延といった未曾有の事態となり、新しい生活様式が提唱され移住や2拠点生活といった新しいライフスタイルが広がりつつあります。一宮町は以前からまちの魅力に惹かれて移住する方が多くもともと懐が深いといえますが、岡野さんをはじめ先人たちが大切に紡いできた太東・一宮のサーフィンの歴史を認識し敬意を示すことが、今よりいっそう魅力的なサーフタウンを育んでいくのに欠かせない視点だと改めて感じました。
進化をつづけるICHIOMIYAスタイル
これまで見てきたように、古くは大正・昭和期の名士の別荘地・保養地として繁栄した一宮町は、戦後の経済成長期の只中、60年代に爆発的なサーフィンブームのきっかけとなったカルフォルニア発祥のビーチボーイズ、ジャン&ディーンといった「サーフミュージック」やエンドレスサマー、ビッグ・ウェンズデーなどの「サーフムービー」、そしてサーファーのファッションやライフスタイルのベースとなった「ヒッピーカルチャー」などの大きなウネリをうけ、日本有数のサーフタウンとして独自の発展を遂げてきました。
1964年の東京大会に続いて約半世紀ぶりに開催する2020東京オリンピックにおいて、サーフィンが初めて正式競技として追加され、一宮町の釣ヶ崎海岸がその競技会場として選ばれました。しかし、新型コロナウィルスの蔓延により大会の開催は1年後の2021年に延期されることとなり、大会は中止すべきといった声も上がるなか無観客での開催が決定されました。
五十嵐カノア選手と一宮町出身の大原洋人選手(出典:The Surf News)
2021年7月、一宮町釣ヶ埼海岸で開催されたサーフィン大会において、日本代表男子の五十嵐カノア選手が銀メダル、女子の都筑有夢路選手が銅メダルを獲得したことにより世界的に一宮町釣ヶ埼海岸が認知されました。
東京駅まで特急「わかしお」で1時間の通勤距離の利便性に加え、最近では「リモートワークの普及」や「退職後の永住者」といった理由で、一宮町の定住人口が増加しています。大都市周辺においては、働き方によって住まい方も都心と郊外で二極化が進んできており、ミドルファミリー層やパワーカップル(高収入夫婦)などの属性や世代によって都内+リゾートといったようにニューノーマル(新常態)を映すような状況が進みつつあります。また、一宮町の特産品として、トマト・梨・メロン等温暖な土地柄を生かした野菜や果物が生産されており、町のふるさと納税の返礼品としても好評を得ています。令和は、始まったばかりですが、この数年の間に一宮町がどのように変化していくのか楽しみでもあります。
釣ヶ崎海岸の鳥居(出展:一宮町観光協会)